人気ブログランキング | 話題のタグを見る

スタバを苦戦させるオーストリア人へ、マツケンサンバを啓蒙してくれ

ウィーンでスターバックスが苦戦しているらしい。「ウイーンと言えば、ウインナーコーヒー」というくらいのことは、あまりコーヒーに見識のない私でも知っている。そのオーストリア人の伝統的な「コーヒー観」というものをスターバックス(アメリカ)は打ち破れないでいるのだそうだ。それほどアメリカ贔屓でない私などは「いいぞオーストリアの人たち!」と、オーストリア人の顔などほとんど知らないくせに応援してしまう気持ちでいっぱいだ。

自国の文化を大事にする国というのはあるのだと思う。そういう国に生まれ育っていない私はどうしもそのことに無頓着になってしまうわけだが、それでも考えてしまうのが、「ブラジル人はマツケンサンバをどう思っているか?」ということである。「ちょんまで白塗りのおっさんが飛び跳ねるサンバ」これを「サンバに対する冒涜」と思われたりしていないのだろうか。不安だ。想像するに、ブラジル人にとってのサンバは非常に重要な自国の文化であると思う。岸和田の人にとっての「ダンジリ」みたいな。喩えがローカルで申し訳ないが。全てのものよりも優先されるというか、そういうアイデンティティにもなりうるレベルでの重要な価値観である気がする。岸和田の人、トム・クルーズがインディアンのかっこして「Tom’s DANZIRI」とか言ってやってきたら怒るんじゃないだろうか。私は岸和田市民じゃないので、「Tom’s DANZIRI」ちょっと見てみたいが。

まぁそれはいいのだが、私は少し前からとても不安だったのである。「マツケンサンバがヒットしてるから」という理由で、「ブラジルでマツケンサンバを披露」みたいなことを日本のテレビはしてしまうのではないだろうか、と。

的中したのであった。29日のお昼。大和田獏が司会やってる「ワイドスクランブル」にて。企画もまさに不安に思っていたまんま。軸は「ブラジルのサンバフェスティバルみたいなイベントで(イベントの規模はいまいち分からなかったが)『日本で大ヒットしたサンバ』という意味でマツケンサンバの披露」。さらにそれだけでなく、テレビは私の想像を絶する非礼を敢行していたのだった。ブラジルに渡ったのは松平健ではなく、岩本恭生。要するにモノマネだ。同行したのが、マツケンサンバの振り付け師の人。番組は岩本と振り付け師の人が、アポなしで本場のイベントに熱意でもって何とか参加させてもらい、本場の人の中には思わず踊り出してしまう人も…感動。マツケンサンバ本場でも認められて、岩本…感激。そして振り付け師の人は「マツケンサンバⅢ」に向けてのヒントを掴む。そういう「いい話」と「宣伝」を組み合わるといった、「だからテレビが面白くなくなるんだ」という象徴的な台本で構成されていたのだが、日本に向けた番組としての質うんぬんに関しては、今に始まったことではないのでこの際おいとくとして、やはり問題は「ブラジルに渡った岩本恭生はニセモノである」ということだろう。

「トム・クルーズのモノマネをするよく分からないアメリカ人がインディアンのかっこして『Tom’s DANZIRI』」

岸和田の人、絶対怒るぞ。「アメ公はん、ナメんのもええかげんにしなはれや。」てなところだろう。しかし、画面の中に、それと同じレベルの非礼をしているという意識は皆無。終始画面は、岩本恭生と振り付け師の人の「頑張ってるぜ、オレたち」という空気が漂っているのであった。少年犯罪の話になると、道徳にうるさくなるくせに、こういう道徳は気にしなくていいって、じゃあ道徳っていったいなんなんだ。

まぁ、VTRとは別のとこでちょっと笑ったとこもあったのだけど、VTRが終わって、画面がスタジオに切り替わり「マツケンサンバの衣装を実物でお見せしましょう」みたいな流れだったのだ。そこでコメンテーター席に座っていた映画監督の山本晋也(仮装大賞の審査員の人)が羽根がたくさんついた衣装の実物を手にして言ったコメント。
「軽いよ!ほんと軽い!」
今までのVTRはなんだったのか。そこは「本場にも負けない素晴らしい衣装」というコメントだろう。誰も重さのことなんかきいちゃない。さすがの大和田も困った顔をしてフォローしようとしたが、いつものごとくうまくフォローできずに現場はうだうだに。しかしそこに追い討ちをかけるように、山本晋也が「ねぇ、軽いから持ってみなよ!軽いから!」

バカすぎて笑った。

ただ考えなければならない。ウイーンの人はスターバックスを受け入れないのである。そういうメンタリティが当然の場所だってあるのだ。自分が違うからといって、そのことを無視していいわけはない。「だって知らなかったもん」で済まされる問題でないことだってある。本当に国際問題になったらジーコに頼もう。いい迷惑だろうが。

私は、この問題の根底に流れる「マツケンサンバ=善」という風潮が気がかりである。「善いこと」だから、何でもOKみたいな。だからブラジルにもニセモノで行けてしまうわけである。しかし、この風潮ははっきり言って間違いだ。「マツケンサンバ」は「善」ではない。「マツケンサンバ」と等式が成り立つのは「ゴールドフィンガー99」である。「ゴールドフィンガー」ならびに「郷ひろみ」は当然ながら「善」ではない。「恥」だ。郷は「恥」をネタとしてうまく消化しきっているので(本人が、というより世間が消化させている感じが強いが)成立するのだ。つまり「マツケンサンバ」とは「恥ずかしいもの」なのである。当初存在していたはずの「恥」がどうにも最近見えにくい。「マツケンサンバよ『恥』を取り戻せ」って私はいったい何を言ってるんだか。

人気blogランキング
↑暴れん坊クリック!!↑
# by cilen | 2004-12-30 06:03

小川直也ゲスト出演に見る紅白のサディスティック性

私が以前から強い畏怖と弛緩を感じていたことなのだが、紅白歌合戦の基本姿勢の象徴とも取れるワンシーンである。「北島ファミリーとTOKIO(的なグループ)が『白組頑張れ、エイエイオー!』と拳を挙げる『おふざけ』」。私は、この「おもしろくない『おふざけ』」に対する態度にずっと困らされ続けてきたわけだ。「エイエイオーって!」というツッコミのない画面。そのツッコミを全国的に心の中に仕舞い込む年末。それが、紅白歌合戦である。家族揃ってテレビの前、その時部屋に充満する空気に、一瞬息ができなくなってしまう、あの苦しさ。もう2度と味わいたくないが、紅白歌合戦はまだまだ私たちを苦しめようとするつもりみたいだ。なんともサディスティックな番組である。まぁそこに鞭を叩きこんで痛めつけてやろうという意図はなく、むしろ何も分からないおぼっちゃんが無闇に鞭を振り回しているという感じか。もちろんこっちの方が危険である。鞭が無知だから。

アニマル浜口、小川直也、波田陽区のゲスト出演が決まったらしい。この中では特に小川直也にサディスティックなものを感じるのだがいかがなものか。サンケイスポーツのニュース記事を引用してみる。

【さらに、小川がハッスル伝授だ。小川はギター侍こと波田陽区(29)と紅白のPRスポットに登場(すでに放送済み)。同局「ポップジャム」にも10月に出演して「ハッスル音頭」を披露と、最近はすっかり同局進出にハッスルしている。関係者によると、小川は「紅組も白組も両方応援したい」と話し、特に「同じハッスルの匂いがするマツケン(松平健)さんと“共演”できれば」と早くもヒートアップ。】

取りあえずツッコンでおくと、「同じハッスルの匂い」って何だ。ということだが、まぁそれはいい。問題は小川直也が流通させた「ハッスル」というものをNHKが曲解して受け取ってしまっているという部分だ。

おそらくNHKの算段としては「サブちゃんとエイエイオー的なもの」と同列に「小川さんとハッスルハッスル」を並べたのだと思うのだが、これは大きく間違った解釈である。ある程度小川を信頼した上での私の解釈だが、小川が「ハッスル」という死語をチョイスし、猪木のパロディーとも取れる「3・2・1ハッスル!ハッスル!」というお約束を執り行ってきた過程には「こんなサブイことを大勢でやることの『おもしろ』」というニュアンスがいくらか含まれていたのだと思うのだ。たとえば「ゲッツ!」という、もうダンディ坂野本人とヤクルトのラミレスしかやらなくなったギャグがあるが、これを単独でやると当然サブイわけだ。でもそれを「第九を歌い上げた合唱隊がみんなで『ゲッツ!』」というならばおもしろいみたいなそんな感覚。「大勢でサブイこと」が「おもしろ」に着地するのは、古典的なパターンとも言えるが「おもしろ」ならば問題はないと私は思う。

ただ紅白における「サブちゃんとエイエイオー的なもの」に「サブイを大勢によるおもしろ」へ向かう感覚は微塵も見受けられない。「エイエイオー」はあくまで「エイエイオー」なのである。それ以外の意味は持たない。そして、新聞記事の文面を借りるならば、

【マツケンやアッコさん、サブちゃんら並み居る大物たちに、あの「ハッスルポーズ」を指導・伝授すれば、紅白最大級の見どころとなり視聴率もハッスルしそうだ。】

想像するだけで、酸欠である。「小川さんとハッスル!ハッスル!」を「サブちゃんとエイエイオー」と全く同じ文脈で解釈した上での、「大物がハッスル!」微妙な半笑いで五木がハッスル、なぜが周りを見渡しながら美川もハッスル。やけに楽しそうな和田ももちろんハッスル、一番ハッスル。その隣で天童もハッスル。カメラが会場を抜き、お客さんも微妙にハッスル。もう、ハッスルハッスル。

紅白歌合戦、このまま「サディスティック番組」の道を邁進し、真性のマゾをターゲットとするならばそれもまた正解なのだろう。ただ当事者にその自覚は皆無のように見える。無闇に鞭を振りまわすNHK、そして鞭で叩かれても痛くなった視聴者。そこには私が窺い知ることのできない「プレイ」が存在するのかも知れない。私はそんな「プレイ」ごめんだが。
人気blogランキング
↑ハッスルクリック!↑
# by cilen | 2004-12-29 15:53

ぺ・ヨンジュンが紅白を辞退することのリスク

今さら私が言うことでもないのだが、紅白歌合戦の画面は「その年」を象徴するもので埋め尽くされるべきことになっているらしい。2004年。韓流。ぺ・ヨンジュン。当然だろう。でも、NHKはぺ・ヨンジュンに断れわられてしまった。これは、ペ・ヨンジュン側が日本市場を大きく誤解していることが原因であると思われる。甘く見ているわけではないだろうが、ちゃんと把握できていない。

当然のごとく、来年も韓流ブームは「続行」という結論が出された2004年末である。今年、そのブームを支えた奥様たちも、当のぺ・ヨンジュンサイドとしても「来年も主役はぺ・ヨンジュン」そのような暗黙の了解があるように見て取れるが、紅白辞退はこのことの地盤を揺るがしかねないと、私は思うのだ。

もうかれこれ10年以上同じ現象が起こり続けているが、紅白やレコード大賞で流れる「その年のヒット曲」が翌年年始にもう一度売れるという現象。去年だったら森山直太朗だとか、夏川りみとかがこれにあたる。これはおそらく、ヒットチャート的な世界にまったく無縁であるお年寄りやおじさんなどが、紅白やレコード大賞ではじめて
その曲を耳にし、「なかなかいいじゃん」と購入へ至るということなのであろう。ということは、「年始に去年のヒット曲を買う人」というのは「その年の流行を年末になって、始めて知る」といったような人たちであることが推測されるわけだ。極端な言い方をすれば「紅白歌合戦が流行に触れる唯一のツール」という人たちもいるのだろう。来年の年始には平原綾香の「ジュピター」が売れるだろうけどMr.Childrenの「sign」は売れないとそういうことだ。紅白で流れないものはこの現象には当てはまらない。

このことから思うことであるが、これだけ凄まじかった2004年の韓流ブーム。しかしその「凄まじ」を肌で感じている人は、ある一定の人たちを除く場所で暮らす人たちである。そしてここで除かれたこの「ある一定の人たち」の数は侮れないほど多い。年始に去年のヒット曲を買える人たちの絶対数というのはむしろ増加の傾向にあるのではないかとすら思う。

大晦日になって始めて「今年は韓国の俳優さんたちが流行った年だった」と知る人たち。そしてその人たちが始めて目にする韓国のスターは「イ・ビョンホン」。その人たちにとっての「韓国人俳優といえば?」が「イ・ビョンホン」になることは避けられない。さらには紅白歌合戦という番組の特性上、画面上を構成する人にはかなり強めの意味付けがなされる。イ・ビョンホンに付けられる意味は当然、「(日本人から見て)韓国を代表する俳優」「このキラースマイルに悩殺された女性多数」みたいなそんな感じだろう。本来ならばそれはぺ・ヨンジュンが受け持つべき意味なのだが、紅白歌合戦にペ・ヨンジュンはいないのだ。その意味を受け持った人が、その意味を始めて見た人からすれば、「その意味の人」ということである。

ぺ・ヨンジュンの紅白辞退はこのリスクを背負うことだと思うのだが、おそらくそのことには視野に入っていないだろう。

日本におけるファンの「数」「熱量」ともに独走してきたぺ・ヨンジュンである。2005年になっても「熱量」に関してはぺ・ヨンジュンが圧倒的であろうと思うが、大晦日を皮切りに「数」における勢力図に変化が見られることは避けられない。「数」というのはイコールで「知名度」ということであるので、ドラマ出演などのキャスティングには直接的な判断材料となってしまうのではないか。ペ・ヨンジュンの盤石が少し揺らいだと言ってもいいと思う。

裏を返せば、紅白にさえ出ていれば、他の追随を許すことなく「日本においての韓国人スターは→ぺ・ヨンジュン→それ以外は、二番煎じ」という構図がこれでもかというほど強固にできていたと思うのだ。まぁでもこれはぺ・ヨンジュンの言うところの「家族」がさらに増殖するということで、私は正直ホッとしていたりもするのだが。

ぺ・ヨンジュンは大きなチャンスを放棄したように見える。2005年の「韓流ブーム続編」どうなることやら。
人気blogランキング
↑うっとりクリック!↑
# by cilen | 2004-12-28 17:01

坂下千里子の現状はどこまでヤバイのか

巷では坂下千里子、人気急降下が叫ばれているようだが、私が思うに坂下はまだ大丈夫である。それは、私が現在の「坂下千里子的」な「キワ」を前にした時にいつも頼りにする指針による判断であるが。

その指針とは、たとえば「マイナースポーツとは何か?」と問われた時に、多数の人が思い浮かべるであろうスポーツが「卓球」であるというようなことなのだが、卓球はマイナースポーツの象徴的な存在であり「卓球はマイナーだ」「卓球部だったんですよ。恥ずかしいんですけど」みたいなことがあらゆる場所で繰り返し行われるうちに、いつのまにか「マイナースポーツといえば卓球」という同意が、世間の間で流通しているようになった。ゆえに「卓球」は世間から忘れられた存在にはならず、それほどマイナーではないのだ。「私、スポーツ始めようかと思って。」「何?」「卓球。」「卓球って!」という「卓球って!」とツッコムポイントが大多数の人の中で共通であるということだ。

坂下千里子の現在を見るに、まさに「卓球」であろうと思う。バラエティ番組を日常的に見る人たちに「最近テレビで見なくなった女性タレントと言えば?」という質問をすれば、圧倒的に坂下千里子の名が挙がると思われる。坂下はまだそれだけ世間の意識に潜在しているのだ。

こうやって考えてみると、坂下はまだキワには立っていない。むしろ「そろそろヤバイといえば→坂下千里子」という同意を世間に取り付けることをすれば、「ヤバイ」の中に安定を見出すことも可能であろう。「卓球」としての人生を歩むということだ。本意かどうかはわからないが、野球やサッカーになれないことは本人が一番気が付いているところではないだろうか。大きなお世話だが。

「ヤバイといえば」で名前が挙がるうちは、まだいくらでもやり方がある。本当にヤバイのは「ヤバイといえば誰?」という質問に対する選択肢群にも上らなくなってしまった人である。たとえばそれは、山川恵里佳であり、電波少年の大学受験で有名になった坂本ちゃんであったりするわけだ。

ジャンルは違うが、ある時期の槙原敬之が「ヤバイといえばマキハラ」であった所から、現在の大蘇生ぶりである。それによって、槙原にまつわるディープなスキャンダルは世間が「忘れてあげた」ようにも見て取れる。坂下の男性問題など槙原に比べれば、それほど深刻ではない。状況が変われば簡単に忘れてくれるようなことだろう。取りあえずは「ヤバイといえば→坂下千里子」というポジションをキープすることが肝要である。そこで蘇生の道筋を見つけるべし。ほんと、大きなお世話だ。
人気blogランキング
↑チリチリクリック!↑
# by cilen | 2004-12-28 04:58

辻本茂雄の「上方お笑い大賞」受賞に見る「イヤ」の正体

話題は少し溯るが、12月19日に「上方お笑い大賞」が発表された。今年の大賞は辻本茂雄。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041219-00000024-dal-ent

この「上方お笑い大賞」という賞であるが、従来から一定の胡散臭さを提供してきた賞であった。やすきよやトミーズが複数回受賞していたり、去年は桂ざこば。一昨年はトミーズ。さらにその前年は桂吉朝という、関西に在住している私でも顔が浮かばない人が受賞している。そして今年の受賞者は辻本茂雄なのであった。そこに私は何かイヤなものを感じた。
(参考)http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Spotlight/5896/ytv.htm

この「上方お笑い大賞」を受賞したからどうだ。とか、その権威についてケチをつける気はそれほどない。問題は、辻本茂雄が受賞したことが体現している「イヤ」の正体である。私はそれ「イヤ」に辟易なのだ。

受賞者一覧を眺めればその選考基準が一目瞭然であるが、まず「その年の露出量」が重要なようだ。これはいかにテレビに出たかということと比例する。トミーズが受賞している年はトミーズが全国的にブレイクした年で、間寛平が受賞している年も同様である。桂吉朝というのだげ理解に苦しむが、何かの突然変異と考えていいだろう。例外だ。

ただ単に「テレビに出る」だけではいけないのだ。露出量から考えればズバ抜けている、明石家さんまやダウンタウンや島田紳助は受賞していないのである。それは「上方」という定義が「関西出身者」ということだけではない、ということを意味するわけで、このことからは「ある一定の枠の中で活動した人」という限定区域の存在が見えてくるわけだ。で、この「枠」の放つ雰囲気が「イヤ」なのである。この「枠」は差し障りのない言い方をすれば「関西を拠点に活動している芸人」ということになろうが、実際はもっと奥深いものに由来すると思う。言うなればそれは、体内における「皆様のおかげです度合」と言おうか、その類の感謝の言葉をむやみやたらと濫用することが「善」となる社会。そこに棲息できているか否か、こういうことが受賞の選考基準になっている感を受ける。その社会とはすなわち「政治」であり「演歌」なわけで、要するに「個人」よりも「誰と繋がているか」とかそういうことが優先される社会である。その社会に棲息する人たちにとって「接待」や「おべんちゃら」や「談合」なんていうものは、しごく当然の行為といった感覚であるのだろうが、一般的にはそれは苦痛であるし「思ってもないことを口にするオレって何なんだろう。こんなことするためにこの仕事やってるわけじゃないぜ!」と吐く息も荒く魂が叫び自己嫌悪の引き金になってしまっても当然であろうとも思う。この社会と一般社会との間には、その「皆様のおかげです」的な感覚の受け入れ度合に関して大きなズレがあるのだ。「仕方なくやっている」か「当たり前にこなしているか」はその必要性を感じ、同じ行為を行なっていても、決定的な差が出てしまうということである。

そして辻本茂雄がこの賞を受賞したという意味は「皆様のおかげです度合が非常に高い社会」の一員として認められた、ということに他ならない。一般社会から認められたわけではない、ということが重要な点だ。これが「上方お笑い大賞」の胡散臭さの正体であろうと思うが、それはここではいい。問題は、辻本がここ数年テレビの画面上で繰り返してた振る舞いであり、このタイミングで受賞したということにつきる。「言うこときく子にはおじいちゃんからご褒美」みたいな、すごくわがままで退屈な老人からもらう「よく頑張ったで賞」的な「イヤ」。そしてその「イヤ」を踏まえた上で「ご褒美もらうと得だし」と自ら「がんばったで賞」をもらいにいく子どもの「イヤ」。

ある時は上沼恵美子をいやらしく持ち上げ、ある時はやしきたかじんに従順に尻尾を振る。それが最近の辻本の活動である。上沼とたかじんの両方の番組にパネラーの一人として準レギュラー出演をしているタレントが辻本一人という事実を前にすれば、辻本がいかに尽力し成果を上げてきたかということが読取れるだろう。辻本茂雄はこの「イヤ」を見事なまでに体現していないか。

そして、受賞。辻本にとって「吉本新喜劇の座長」という意味よりも、「皆様のおかげです度合」を増したことの方が遥かに重要であると私などは思ってしまう。

さらに「皆様のおかげです度合」を増す行為とは当然「接待」であり「よいしょ」であるわけで、その行為の向かう先が「おもしろい」のはずがないのだ。「お笑い大賞」の選考理由が「自分がおもしろくなくてもいいと思えたかどうか」という構造になっている事実にもまた、私はひどく「イヤ」を感じるのだ。

「内場(勝則)さん、石田(靖)くん、お先に行かせてもらいますわ」
そんな感じか。
人気blogランキング
↑あごでクリック↑
# by cilen | 2004-12-27 12:15